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To_AsteroidB216

140文字から溢れるTwitterをやる資格のないひと

高校生とセックスの話

先日、ツイッターの方で仲良くしてくださっているかないさん(@fronttotempole)とホセさん(@sail_sail_sail)と「高校演劇における下ネタ」についてツイキャスでお話させていただく機会があった。

【追記】 最後にかないさんが4月になさる公演の紹介させていただくのでぜひ最後まで読んでね! 最悪読まなくていいから最後まで飛ばして紹介だけでも見てね! いやそれは寂しいからやめて!

 

下ネタ系ツイッタラーな私の適当なツイートを素敵なフォロワーさんたちが面白く調理してくれるという生活を送っているので、ツイキャスも普段と変わらないような話ができるのだろうなと思ったが少し違った。

 

事の始まりは私が初めてツイキャスに参加した時まで遡る。

2016年5月。その時の私は下ネタ系ツイッタラーだった。全く成長しないねキミね。

いや、最初は違ったのよ? 最初は凄いツイッタラーが来たな的な流れがあったらしいよ? めっちゃ賢いじゃんコイツみたいな。まあ単純にいえば猫被ってたよね。それはうん、認める。超認める。結局賢そうなことが思いつかなくておっぱいの柔らかさについて語りまくってたら男や童貞に間違えられた。

今も間違えられる。

そんな私の初ツイキャスはかないさんとのコラボ。最後の枠に勇気を出してコラボしに行ったところ私の他にも3人くらいコラボしに行ってて泣いちゃうかと思った。私は3人以上が同時に話すと耐えきれず泡を吹く。

コラボしに行ったくせにコメント欄で「わかる」「本当にそれ」「おもしろい」とかぽちぽち打ってた私にかないさんが「次を本当の最後枠にしてゆうがさんとサシで話しましょうか」と言ってくださった時は口から泡が出ちゃうと思った。何ならちょっと出た。

「アッ、イヤ、エッ、イインスカ?アザス、アザスゥ」とアホ丸出しの返答の後、何を話したかっていうとエロい話だった。おじさんとJKのエロ話キャスだ。

どこからどう見ても需要アリアリなはずなのだけれど、実際話した内容は『膣に陰茎を入れることを「童貞卒業」とみなしてもいいのか』とか『私達がAVから学べること』とかだった。

今までのキャスを楽しんでいた方々もこんな話を聞きたいはずがなく私の家にカッターの刃入り封筒とかを送りつけたかっただろうし、私も送り付けたかった。かないさんがどうにか高校演劇に繋げてくれたため事なきことを得た。今となってはいい思い出だ。

 

高校生とセックスの話はいつするんだよ。全然しないじゃん。もうそろそろ1000文字だよ。

こんなに長々と書いたのにも理由がある。

私は、かないさんとエロい話をしていたとき興奮していた。厳密にいうと“かないさんが「次を本当の最後枠にしてゆうがさんとサシで話しましょうか」と言ってくださった時”から興奮していた。

待って。引かないで。ドン引きたい気持ちもわかるけどちょっと待って。

 

興奮といっても、純粋な、性的な意味を含まない興奮。

「私、いま、エロい話をしてる!」という興奮だった。

 

高校生とセックスのはなし

 

さて、先日のキャス内では「高校演劇においてどうセックスを表現するか」という議題から少し発展し「なぜセックス描写は高校演劇でタブーなのか」という話になった。

高校生は多感だ。多感さにも違いがあって童貞もいればビッチもいるし、コックリングってなんですか? っていう人もいればフードクラッシュものに興奮します! って人もいるし、これから開花する人もいるだろう。

 

どれだけ純粋ぶっても小学校高学年~中学にかけて2回以上は正式に性教育としてセックスについて習っている。

マニアックな単語は知らなくても、隣のクラスの純粋そうなあの子の頭の中にだって「精液」という単語は入ってるわけだ。というか、副教科も捨てず授業を真剣に聞いてる優等生ほど脳みその溝に深く彫られているわけだ。

そう考えるとエロいな。

 

そんな、純粋な子ども達に性への関心を持たせるきっかけのような、コウノトリやキャベツや川の下での拾い子を信じる人へ容赦なく現実を突きつけるような保健体育の授業。

 保健体育の性の授業が許されて、高校演劇のセックス表現が許されないのはなぜか?

 

中学高校の時期は、セックスを少し違う目で見ていると思う。

先ほど述べた私の「興奮」がその一つである。性の話に性的興奮を覚えることもあるが、私は「高校生の自分がエロい話をする」というだけで性的じゃない興奮を覚える。なんでかっていうと高校生が実はエロい話をしちゃいけない存在だからだ。タブーは興奮の鍵。

中高生にとってセックスとはレッテルでありアトラクションであり憧れでありステータスであり汚物でありファンタジーであったはずだ。そうだろう。そうじゃないのか。

でも実際のところセックスは生殖行為であって、性欲快楽だけじゃやってけなくて、妊娠とか責任とかそういうのがついてくる。

そんな、子どもはデキてほしくないけど気持ちいいセックスをしたい高校生が、夢と現実のギャップにまみれた自由に見えて不自由なセックスを舞台で演じるって魅力的だと思う。思うよ。

思うんだけど、現実はつらく厳しい。「観た人が引くから」とかならまだ反論の余地がある。学校的にどうの教育的観点がどうのとか、そういうことを言われる。学校出されたら勝てないわな。

 

あ、「高校演劇においてどうすればセックスを表現できるか」って話なので、学校外で立ち上げた劇団内においてセックス表現をドンドンやっちゃう系高校生(すごい)は除外ね。

 

でも、でもさあ、「観た人が引くから」って、私もわりと保健体育の授業引きましたけどね?

劇より授業の方が視聴者参加型っぽい分もっと悪質だと思う。(え!? 先生この文章を私に読ませるんすか!? えっ!? 陰茎とか書いてありますけど!?)って思うし。出産ビデオとかドン引きの極みだよ。命を授かるとっても大切なビデオだってことは脳で理解しててもどこかしらショックを引きずるよ。

しかし保健体育の授業という立場の上で、あるいは立場の元だからこそ、なにも制限されない。

 

保健体育で教えているのは「生殖行為としてのセックス」、高校演劇においては「快楽としてのセックス」。

保健体育は「授業」、高校演劇は「娯楽」。

この違いが大きいのではないか。

もちろん、生殖行為としてのセックスを表現したい場合もあるだろうが、きっとそれなら表現次第で許されると思う。キャスの中でも「おしべとめしべをくっつける」なんて案があったけれど、それが一番近いと考える。

でもさあ、そんなんを表現したいワケじゃない場合もあるくない!?

「子孫を残したい男女」じゃなくて「ムラムラしてエッチしちゃったカップル」を描きたい時はどうすればいいの!?

そもそも受け取る側で変わるよねえ。保健体育の授業をエロい目で見てた生徒もいるし、高校演劇のセックス表現で学ぶ観客もいるだろう。逆に、保健体育の先生が万が一性的興奮を得ながら授業していたとしても生徒は学ぶだろうし、高校演劇でどれだけ真面目に生殖行為としてのセックスを表現しようと興奮する観客は興奮する。

 

これ、高校演劇を知った時から思ってたんですけど、高校演劇ってややこしくない?

教育的観点とかいうちょっと難しい単語のせいで悩みまくる。

保健体育の授業ってだけで守られやがって。

そんな私がキャス内で提案したセックスの表現方法は「保健の教科書の性教育部分を引用する」「保健の教科書に出てくる単語だけを使う」「舞台上でいきなり性教育の授業を始める」でした。だって保健の教科書がダメってなったら性教育授業の存在ごと否定することになるからね。先生を窮地においやろうね。

あ、ちなみにその案は割といいねって言われました。ありがとう保健体育。

しかしシリアスな場面でのセックス表現についてはいい案が出ないまま終了。私のピンクな頭ではブルーなセックスについて考えきれなかったようで。

キャスの中でこれといった案が出なかったのは申し訳ない気持ちでいっぱいですが、あのキャスがきっかけで高校演劇に携わる皆様の性表現への考えや理解が深くなるきっかけになればいいな、と思います。

 

でもかないさんが「椿の花がぽとりと落ちる」ってセックス表現を提案してたけど「昭和」って一蹴されてたのは面白かったです。

そんなかないさんが公演をなさるそうです! 要チェキ!

ヤツヨシキさん(@yoshikiworks)と演(ヤ)るみたいです。

うーんヤツさんの宣伝ツイートも無断で埋め込んじゃう!(ごめんなさい!)

 ね、宣伝ツイート2つも見たら絶対忘れないでしょ。目ん玉に焼き付けろ。

超アツい。マブい。行くしか。

「コン劇」としてのアカウントは作成なさっていないようですが、かないさんのツイートを遡ればあんな動画こんな動画が見つかるので、少しでも気になったらバイブスで向かいましょう。

 

以上、「高校生とセックスの話」でした。ありがとうございました。

創作の勉強ってなんだよって話

お久しぶりです!!!!!(1ヶ月ぶりの更新)

伏線回収。

 

ブログを作ったのでこれについても書いてみる。

 

創作の勉強って何?

よく「創作の勉強したいけどどんなこと学べばいいかわかんない」みたいなことを聞いては疑問を抱いていた。

創作の勉強ってなによ。

 

ワークショップがあるように、創作についてもプロから教わるアレがあったり、ユーキャン的なソレがあって技術や表現方法を習得できるんだと思う。習得できなきゃおかしいもんね。プロだもの。ユーキャンだもの。

先生から教わる。先輩から教わる。成功者から教わる。それも正解。否定する気はない。

 

「英語は文法と単語から成り立ちます。文法は先生が教えますが、単語はたくさんありすぎるので自分で覚えるようにしてください。」

「文法だけ知っていても、単語を知らなければ英文は作れません。」

って中学の英語教師が言ってた。

そういうことなんじゃない?

起承転結とか序破急とかを教わっても、創作のアイデア・ネタまで教わることはできない。そういうのは自分で探すもの。

 

もっと言えば、構成なんかはアイデアをよりよく見せるためのサポートでしかない。あればモチロンいいけど、なくても何とかなる場合もある。(構成なんか無くていいとは言ってない!)アイデアが大事。

英語が下手な私でも英語圏の人とコミュニケーションを取れたことがある。韓国で「カムサハムニダ(ありがとう)」と「マシソッソヨ(美味しかったです)」しか喋れなくてもフェイスパックを買えたことがある。

私がどういう風に外国の方々とコミュニケーションを取ったかは、出川イングリッシュとか、(関西ローカルだけど)ロザン菅が外国人に道案内するコーナーとかを思いだしてくれれば分かりやすいかもしれない。どっちも知らない人は、まあ、頑張ってください。

文法がダメでも単語だけで伝わるものは伝わる。文法ができない分は言い換え表現やジェスチャーで補ったし、文法があればもっとスムーズに意思疎通ができたはず。だけど確かに単語だけでもコミュニケーションは成立した。

文法だけ習ってても単語を知らなければきっとコミュニケーションは成立しなかった。「SVOC!SVOC!」とか言ってても「は?」って返されてたと思う。

 

創作はそれと同じなんじゃない?

組み立て方やちょっとした裏技なんかを知れば知るほど表現の幅は広がるけど、話の元となるアイデアは自分自身が得ていくもの。

だから創作の勉強に正解なんてないんだよ!終わり!

って言いたいけど、こういうところで終わるのは元々“できる人たち”だっていうのを私は知っている。私はできない人だからわかる。困るよねこういうところで話が終わるとね!

じゃあどうやって得るんだっていう話ですよ。創作の勉強って結局なんなんだって話ですよ。

できないなりに考えてみて、やっぱり創作のアイデアが人生経験の積み重ねから来るっていうのは一つあるんじゃないかなと思う。自分の経験から創作のネタになりそうなものを拾い上げる。「自分の人生に創作のネタにできるほどの経験なんてない」っていう意見もわかる、私だってそうよ。私も履歴書の趣味欄には読書・人間観察・音楽鑑賞とか書いちゃう人間。楽器も運動も勉強もできない。

「自分の人生には何もない」かもしれないけど、自分の人生に関わった人物から、事件から、環境から何か盗める情報はあるはず。

私の知り合いに少年院を経験した人がいた。当時は犯罪を自慢げに話すなよといらつきさえ覚えたけど、今となってはオイシイ提供者だったしもっと聞いておけばよかったと思う。私は創作ネタに貪欲な生き方をしている。超ポエミーになる時もある。空を見て「空を綺麗だと思うのは人間の特権なのだろうか」と考えたり、好きな人にウレシイ言葉を言われた時の体温の上がり方を脳に焼き付けまくったりしている。痛いなって思う時もあるけど、それはそれで「痛いキャラ」を表現する時に役立つし。

ちなみに愛の言葉を囁かれた人の体温は0.8℃上昇するらしい。高校演劇の恋愛モノなんかじゃ超絶使えるネタだと思っているのでここで広めておく。「0.8」みたいなタイトルでね。微熱があると思ったら恋だったみたいなね。

Twitterやってると創作ネタbotなんかをよく見かけるんだけど、あれを自分で作る気持ちで生活すれば創作ネタなんて自然に見つかりそうなものだ。一日の細かい何かに気づくもよし、図書館に行ってネタになりそうな情報をかき集めるもよし。

勉強の矛先はどんな創作をするのかにも関わってくる。コメディものを作るならお笑い芸人の漫才やコントを見るとかそういうの。というか、面白いものを作るために必要なのは「面白いものを見ること」だけじゃないと思ってる。面白くない作品を見て「つまんねー」と言えばそれまでだけど、そこから「どこが面白くなかったか」「どうすれば面白くなるか」を考えればそれは立派な創作の勉強になるのではないか。面白くないものを見ることも大事。

 

言ってしまえば創作のための勉強なんて今までの人生分そのままが既に積みあがっている。そこから自分がどうアイデアを探して見つけて創作に組み込めるか。他の作品を見るのも立派な勉強、作品鑑賞をやめて街で遊ぶのもまた創作の勉強。他の人の話を聞いてそのままネタにできそうならすればいいし、他人の話を取り入れられない性格なら自分でネタを作るだけ。

 

この世に無駄なものなど無いということは、創作に触れる人こそ実感するべきだと思う。

トラウマも甘いデートも創作のネタとして消化して昇華しちゃえ。創作と人生経験の相互利用をどんどんしちゃえ。

 

あ、あくまでネタはネタ、作品は作品ね。好きな芸人のネタをそのまま自分の作品に入れるとかはダメね。パクリとかもあるけど違和感が生じるから。あと自分の経験をテーマにしすぎた半フィクションみたいなのを作るのもちょっと違うのよね。自分を当てはめすぎた特に面白みのない自己満足作品を作るのはメンヘラがよくすることって言われるよね。そこについて話すともっと長くなるからまた今度ね。記事にしたり他の人と話せたりすればいいなあって思います。

 

あとめんどくさい人から反応来ないようにもう一回言っとくけど、この考えはあくまで私の考えであって創作の勉強方法は他にもたくさん存在します。効率的非効率的はあるにしろ(不正解ももしかするとあるかもしれない)、正解は一つじゃないです。自分に合った作り方を見つけるのがその人にとって一番の正解じゃないでしょうか。

 

以上「創作の勉強ってなんだよって話」でした。ありがとうございました。

ブログをつくったはなし

ブログを書くのは恐らく5年ぶり。
中1に入る前にやめた記憶。その時に使っていたのはアメブロ
こうしてブログを開設する際にどこのサイトにしようかと迷っていた時、むかし使ってたなら書きやすいかなと思ってアメブロに登録したけど仕様が一変しててびっくりした。
書きにくいし。アメブロに拘る意味ないし。

はてなブログもよくわからない。まさにはてなって感じだ。

フフッ。

 

昔は小学生ながらCSS編集をしてマウスカーソルの後にキラキラを追わせてみたり、ipod型のブログパーツからyoutubeの低音質な音楽を流したりした。確かにした。
オバサンになったものだなと思う。いや、若気の至りの痛々しさが少しでも抜けたと言うべきか。どっちにしろブログなんか書いてる時点で痛いんだけど。
あ、あと「右クリック禁止!画像保存する時はコメントしてね!」とかいうウインドウも出した。確かに出したよ。

ブログの書き方忘れてるから改行のタイミングとか分かんない。ツイッター慣れ。
昔は面白いと思った場所を大きくしたり太文字にしたりしてたけど、今はもうそういう工夫もいらないなーって。
いるよね、一番大きい文字で一行目に
お久しぶりです!!!!!(1ヶ月ぶりの更新)
とか書く人ね。いるいる。

前記事「創作における~」を書くためだけに作ったみたいなところあるからここがどうなるかはわからない。
長々とした文章を書くのは本当に久しぶりだったから何回もキーボードを折った。
書いてる途中に(アレ、何を言いたかったんだっけか)と何十回も思った。

ありがたいことにゆうがを本当の本当の最初から知ってる方は「死はチート」のイメージを持ってくださっているらしいけれども、今のような状態になってから知り合った方々は私のことを下ネタ系ツイッタラーか何かだと思っているようで。

私も自分のこと下ネタ系ツイッタラーだと思ってる。大丈夫。

アルジャーノンに花束を』で有名なダニエル・キイスアイザック・アシモフに「どうやってこの作品を創りあげたのか」と訊かれ「どうして私にあんな作品が書けたのか、もしあなたにお分かりだったら教えては頂けませんか?私ももう一度、あんな作品を書いてみたいのです」と答えた。

それな。


この前こういうツイートを見つけた。

なるほ、な……うん、なる、なるほど。なるほどな。

見つけたのはあの記事を書きあげる前だったからキーボードが勝手に折れるかと思った。(ここまで1244文字)


以上、「ブログをつくったはなし」でした。ありがとうございました。

創作における“盛り上がりのための死”はチートっぽいねって話

「物語中に“死”というイベントを入れるのはなぜ?」と聞かれれば、やはり話に盛り上がりをつけたいからというのが主な理由だと思います。

 

書き手からすれば死は便利ですが、便利ゆえチートのようになる場合があります。

さらにチートは、いわゆるバグを生み出します。

 

(※チートという言葉自体が定義の曖昧なインターネットスラングであるため、この記事では「便利だが世界観を崩壊させてしまう違和感・不具合を伴った存在」としてチートという言葉を使用します。)

 

最初に言っておきますが、

・死を題材にした作品

・死が物語全体に大きく関わる作品

・その死が無ければ物語が確実に破綻してしまう作品

私はそのようなものに関して口が裂けても文句は言えません。言いません。

あとギャグとして人がバタバタ死ぬ作品も含んでいません。

「笑いとはいえ人を簡単に殺していいのか!」みたいな話をする気はないので他でやってください。

 

まず、チート行為は軽々とゲームクリアにこぎつけることができます。なぜなら超強くできるから。

ポケモンなら御三家が初っ端Lv100、どうぶつの森なら開始時の貯金額が999999999ベルみたいなものです。

ポケモンどうぶつの森も知らないけどロマサガなら知ってるからそれで例えて」みたいな大人は今時の若者とのジェネレーションギャップに悶え苦しんでください。

 

話を戻します。

でもチートってめっちゃ違和感があるんです。そこにあるはずの過程すっ飛ばしちゃうから。他と比べてバランスがおかしい。チート部分だけ強すぎる。

周りも「あ、こいつチート使ったな」って分かります。

チートは通常プレイで味わうことのない安っぽさ、データがすぐに壊れてしまいそうな脆さを伴います。バグも発生します。

ゲームクリアの達成感も通常プレイより少ないです。

 

さて、それらのワードを創作に当てはめてみますと

チート=盛り上がりのために無理やり入れられた「死」

ゲームクリア=作品を書き上げること。また、それを誰かが見ること

バグ=作品の世界観を損なう存在・受け手にとって心地の悪い感情(違和感・困惑など)

という風になります。

 

ここでやんわりとした例を少し。

 

【①作中の盛り上がりのためパターン】

夢に向かって努力している主人公

→困難を乗り越えつつ夢へのキッカケを掴む

→主人公を応援してくれていた親友が突然死ぬ

→絶望し夢の舞台からも逃げる

→何らかの形で主人公の元へ現れる親友の霊

→「大丈夫だよ!ずっと見守ってるよ!」みたいなことを言って消える

→元気づけられた主人公、夢から逃げない心を手に入れる

 

文としてまとめてみるとあまり違和感がないように思えますが、実際に作品を見ると少し引っかかる場合があります。

①の場合、本当に突然死にます。

主人公が幸せの真っただ中にいる時、いきなり友人から電話がかかってきて「落ち着いて聞いてね……○○が殺されたの……」とか言われます。主人公超ビックリ。こっちも超ビックリ。

伏線を張っていればいいというわけでもありません。

「そういえばさ、この近所で放火魔が出たんだって!」

「死んだ人もいるんだってさ」

「あんたも夢追っかけるんでしょ? 気を付けて帰りなよ」

「大丈夫だって、そっちこそ気をつけてよ」

みたいな会話が不自然に出てくると(あ、これ放火されて死ぬな)って私は思います。俗にいう死亡フラグってやつですかね。伏線の雑さはまた別の話かもしれませんが。

 

しかしながら、チートな死だけが安っぽさの原因ではないのです。

確かに不自然な死の入れ方も一つなのですが、更に安っぽさを倍増させてしまうのが

「チートな死 + それによって巻き起こる感情変化」のコンボ。

 

なんで死のイベントを入れるのか、それは挫折→躍進の流れを作りたいのがおおよそだと思います。

不自然で違和感で安っぽくなる場合、作者のそういう都合が透けて見えてるんです。

ああ、この盛り上がりのためにこの人物を殺したんだなあって。

死ぬから盛り上がるのであって、盛り上がりのために死んじゃだめなんですよ。

 

【②性格の裏付けのためパターン】

暗い主人公

→周りが元気づけようとするが効果なし

→実は過去に大切な人が死んでいたと判明

→今の主人公にとって一番大切っぽい人が色々言う

元気づけられた主人公、トラウマから逃げない心を手に入れる

 

よくある話です、物語に描かれない背景にある壮絶な過去。

こちらは①より『それによって巻き起こる感情変化』部分が分かりやすいので挙げさせていただきました。

最初はいかにも近づきにくい陰気くさい雰囲気を醸し出しているのにも関わらず、過去にあった悲しい死について打ち明け、周りから優しくされたら元気になる。超チープ。

何年もかけて主人公との信頼関係を築き上げるか、主人公にかけた言葉が主人公にとっても受け手にとっても説得力のあるものか。どちらにせよ、受け手も納得するほどの描写がなければいけません。

だって、そうしないと過去の死はたった軽い一言で元気になる程度のものだったということでしょう?

性格を歪めてしまうほどの壮絶なトラウマとの釣り合いが取れていない。矛盾。不具合。バグ。

 

捨て駒じゃないんです、人物たちは。

作品上ならその人物は様々な死に方をするでしょう。でも殺しているのは作者自身です。

周りを泣かせるために、友情や愛情を芽生えさせるために殺すのは止めてほしい。殺すならもっと愛を持って殺してください。

創作上とはいえ作り上げた一つの命です。作者が軽く殺せるほどのモノに受け手が感情移入できるわけがありません。

「自分で頭痛めて生んだ子なんだから最期の瞬間まで立派でいてほしい」くらいの気持ちで心を痛めながら殺してほしいです。

 

もちろん作者だけでなく、人物に対する愛情深さは受け手にも持っていただくことが重要ではないでしょうか。

「突然の死」というのが分かりやすい表現かなと思います。

①の時に親友が突然死ぬという例を出しましたが、そういう突然ではありません。 受け手にとって突然という意味です。

特に思い入れのない人物がいきなり死んだと言われても「エッ誰だそれ!?あ、あいつか!あいつ死んだんだ!……へ、へえ!まじか!突然だな!」となります。

存在が不可欠なほどに描写されている人物であれば、受け手もその死の重さを実感するのではないでしょうか。

 

長くなってしまいました。

死って便利なんです。

そもそも“死”自体が事件です。今まで見ていた人物の命が尽きる。それだけで受け手はハラハラしちゃうものです。

そして、その死に携わるひとりひとりにドラマがうまれます。

悲しむ人、喜ぶ人。泣き叫ぶ人、何とも思わない人、後追い自殺する人…… それだけで一つ作品が書けてしまいそうなくらいなのですから、作品のエッセンスとして“死”を投入するのは少なからず効果があるものです。

しかし死はチートのようになりうる。

チートによりゲームはクリアしやすくなるけども、それで本当にいいのか。バグを背負ってまでチートを使う意味はあるのか。

気が急くのも分かりますが、今一度冷静になり「その死の必要性」を考えていただきたいです。 せっかく作った世界観を壊さないためにもね。

 

以上、「創作における“盛り上がりのための死”はチートっぽいねって話」でした。ありがとうございました。